東洋工業(現・マツダ)がNSU社とライセンス契約を交わし1961年から研究開発を始めたロータリーエンジン。1951年にフェリックス・ヴァンケル博士が発明したもので、「夢のエンジン」とまで言われたが、実際には未完成なものだった。当時の松田恒次社長に社運をかけたロータリーエンジンの開発を託されたのが、気鋭のエンジニア山本健一氏だった。この連載ではその開発過程から1991年のマツダ787Bによるル・マン24時間制覇までを、マツダOBの小早川隆治さんの話に基づいて辿ってみる。
マツダのル・マン挑戦は失敗に終わるのか?
今回と次の最終回でル・マン24時間制覇までの軌跡を振り返っておこう。今回、話を伺った小早川さんは1991年にル・マン24時間レースを制したときのモータースポーツ担当主査でもあった。
「RX-7(FD3S)の開発主査として開発が山場にさしかかっていた1989年10月、私にモータースポーツの主査も兼任しろと言われたのは、当時の上司、達富康夫さんです。達富さんはロータリーエンジンの四十七士のひとりですが、商品本部長になられた時に、それまでは広報部門がモータースポーツは担当していたが、それでは良い結果は出せないと、モータースポーツプロジェクトを商品本部に移管して主査制度を適用した。最初のモータースポーツ担当主査になったのが、広報でモータースポーツを担当していたRE研究部出身の藤山哲男さんでした。
僕はモータースポーツ大好き人間ですが、RX-7の主査とモータースポーツ主査の二足のわらじは履けませんと、そのときに達富さんに言ったのは覚えています。ただ前任者の藤山さんが体調を崩してしまったこともあり、結局、二足のわらじを履くことになりました」
小早川さんが二足のわらじを引き受けたときは1989年のル・マンが7位に終わり、ロータリーエンジン車が出られる最後の年となる1990年の上位入賞に向けて、大幅な出力向上プログラムがすでに動いていたが、残されたされた時間はあと半年しかなかった。
「1989年のル・マンには達富さんも行かれ、レースが終わった後のプレスブリーフィングでドライバーもみんな集まっているときに、来年上位に入賞するためにどうしたらいいかと達富さんが問われたことに対してピエール・デュドネさんが、あと100ps欲しいといわれたようです。ピエールさんはベルギーのジャーナリスト兼レーシングドライバーで、マツダのル・マンで合計7回もハンドルを握ってくれた人で、いろいろなところで、貴重なアドバイスをくれている。その場で達富さんが、よし分かった100馬力アップしてみせるといわれたのです」
ロータリーが出られる最後の年となるはずの1990年ル・マンに向けて達富さんの大号令がかかって、100psアップの4ローターエンジンのプロジェクトが進んでいくが、限られた時間の中で準備不足は否めず。結局1990年はパワーアップした2台のマシンはリタイアし、従来エンジンを積んだ1台が20位で完走という結果となる。
本来ならここでロータリーエンジンでのル・マンの挑戦は失敗だったということで終わってもおかしくなかったが、「ラッキーだったのは僕流に言えば1990年のル・マン終了後、女神が微笑んでくれ、もう一年だけロータリーが出場できることになったのです」。<続く>(取材・文/飯嶋洋治)
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April 18, 2020 at 04:06PM
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【山本健一とロータリーエンジン】ル・マン24時間への本格参戦と悪戦苦闘の日々[第8回] - motormagazine.co.jp
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